アイリス・チャン著『ザ・レイプ・オブ・南京』のずさんさ


チャン、使用写真のウソ2(2)松尾一郎

解説には『日本のメディアは南京の近くで日本軍の殺人競争を熱心に報道した。最も悪名高い例の一つが向井敏明・野田毅という2人の少尉で、この2人はどちらが先に100人を殺せるかを判定するために、それぞれ南京近くで首斬りをやり続けた。「ジャパン・アドバタイザー」は「向井106、野田105.両者とも100人を突破。どちらが先に刀で100人の支那人を殺すかという競争は延長戦へ」という大胆な見出しの下に両人の写真を載せた(「ジャパン・アドバタイザー」)』(注:写真は「東京日々新聞」の記事である) 『日本のメディアによる南京近郊における、日本陸軍の殺人競争(コンテスト)についてむさぼる様に報告した、数多くの悪名高きものの一つ。2人の日本軍中尉、向井敏明と野田毅はどちらが先に南京に至るまでに100人殺すことが出来るか浮かれていた。日本の大胆な広告者の見出しのもとに“2人の兵士が超記録―向井106と野田105人が刀によって100人斬りの競争”と書かれた。(日本の新聞広告)』 

 (場所)常州 
 (撮影時間)昭和12年11月29日(1937年) 
 (撮影者)佐藤振壽(元毎日新聞記者)  

 考察  

 この写真は「南京大虐殺」での当時の兵士が残虐行為を行った根拠としてよく使用されている。この「100人斬り」の記事は3度、東京日々新聞(現毎日新聞)にて報じられた。 第1報(昭和12年11月30日朝刊、「(見出し)百人斬り競争!両大尉、早くも80人」浅海、光本、安田特派員発) 第2報(昭和12年12月6日朝刊、「(見出し)“百人斬り”大接戦 勇壮!野田、向井少尉」句容にて五日浅海、光本両特派員発) 第3報(昭和12年12月13日朝刊、「(見出し)百人斬り“超記録”向井106―105野田 両少尉さらに延長戦」(本文)紫金山麓にて12日浅海、鈴木両特派員発) これら3回の報道の内容は上海から南京までの間に戦闘時に白兵戦において日本刀一本で敵兵を何人斬ったかという事について述べている。つまり兵隊が戦場において戦い、敵兵と勇ましく戦い「100人もの敵兵をやっつけた」という事を述べているだけの内容である。何ら残虐行為とは関係がない。 兵士が戦場において「戦う」という行為は何ら問題はなく正規の戦闘行為である。 しかも、これらの記事には疑問が数多くある。両少尉は白兵戦などは出来ないはずである。野田少尉は大隊副官という任務であり、仮に白兵戦が起こっている状況下にいたとしても彼は大隊長を助け、その命令を各中隊に伝えるという重要な任務についている。 向井少尉にしても砲兵隊の小隊長である彼は歩兵砲の指揮を行わなければいけない立場である。距離いくら「撃てー」等といった命令を行わなければならないような立場の者がどうやって白兵戦を行ったのであろうか? 通常の戦闘では、敵兵に接近する事はほとんどない。日本刀をふるって中国兵を斬ることができるのは希に白兵戦が起きる時のみであろう。しかも彼ら2人の写真を撮影した佐藤振壽氏も偕行社「南京戦史資料集」の中で「どうやって、中国兵を斬ることができるのか、大きな疑問が残っていた。」と、述べている。 ただ、なぜこのような記事が書かれたのか?それを知る手がかりと言えるものに鈴木明著「南京事件のまぼろし」文藝春秋の中に当時の「南京法廷」において向井少尉の弁護人が提出した上申書が参考となるだろう。 

  (1) 被告向井ノ中支ニ於ケル行動 

 向井は富山部隊の砲兵中隊に所属。丹陽に向かって前進中、12月2日迫撃砲弾によって脚及び右手に盲貫弾片創を受けたため、後続の看護班に収容され、12月15日まで加療した。向井が、富山部隊に担架に乗って帰隊したのは15、6日だが、それからも治療を続けていたので、東京日々新聞にあるように十日紫金山で野田少尉とも新聞記者とも会っているはずがない。 

  (2) 特派員浅海ガ創作記事ヲナシタル端緒(原因)を開明スル処、次ノ如ク解セラル  

 記者は「行軍ばかりで、さっぱり面白い記事がない。特派員の面目がない」とこぼしていた。たまたま向井が「花嫁を世話してくれないか」と冗談を言ったところ、記者は「貴方が天晴れ勇士として報道されれば、花嫁候補はいくらでも集まる」といい、如何にも記者たちが第一線の弾雨下で活躍しているように新聞本社に対して面子を保つために、あの記事は作られたのである。向井は、自分がどんな記事を書かれて勇士に祭り上げられたのかは、全然知らなかったので、半年後にあの記事を見て、大変驚き、且つ恥ずかしかった。浅海記者がこの記事を創作したのは、当時の日本国内の軍国熱を高揚しようとしたためで、また、記者の内容が第一線の白兵戦戦闘中の行動であるから、誰からも文句が来ないと思い書いたものと思われる。 

 中略 
  (4) 犯罪の事実ノ無根ナル証拠、新聞記事ノ事実無根ナル証拠左ノ如シ

 1、向井は白許浦に上陸し、丹陽迄歩いて行き、丹陽から湯水まで担架で運ばれたので、その他の場所へは行ったことがない。
 2、向井は浅海記者と無錫以外で会った事がない
 3、向井は無錫と丹陽の砲撃戦に参加したのみで、他の戦闘には参加してない。
 4、向井は無錫と丹陽で双眼鏡で中国軍を見た以外、翌年1月8日まで、一人の中国人も見ていない。
 5、向井は砲撃の指揮官だったから、第一線の白兵戦に参加しているはずがない。
 6、向井は野田と丹陽で別れて以来12月16日まで会っていない。
 7、記者達は無錫より自動車で行動しているのだから、向井たちを見つけたはずがない。

 結 論

 この「100人斬り」報道は、当時の日本兵は残虐行為を行っていたという根拠としてよく使われる。だが、新聞報道には戦闘行為中に敵兵と戦い銃を使わず「刀で斬った」と述べているだけで正当な戦闘行為を述べているのみである。しかも、この写真撮影を行った佐藤振寿カメラマンは「疑問が残る」と、述べており、しかも彼らの所属部隊の職務を考えても不自然と言わざるを得ない。 極東軍事裁判、南京法廷には先の上申書が提出されたにも関わらず彼らは死刑となった。 それは、当時の単純な報道姿勢による不幸な犠牲としか言いようがない。 この報道写真が「南京事件」における軍記の弛緩とは直接どころか間接的にも関係は全くない。したがってこの報道写真が「南京事件」における虐殺がおこなわれたという証拠には全くならない


チャン、使用写真のウソ(3) 松尾一郎  

解説には『南京では刀による首斬りが盛んであった。カメラが首斬りの瞬間を捕らえている。(新華社通信)』とある。

 『南京では刀による首斬りがもっとも人気があった。これは犠牲者の首が斬られる瞬間をカメラが捕らえたものである。』(新華社通信)
 
 (撮影場所) 不明
 (撮影時間) 不明
 (撮影者)   不明

 考察

 犠牲者とされている男性の服装は中国の一般市民が当時着るような平服ではなく戦闘服である。
 つまり、南京市民という訳では無さそうである。敗残兵、もしくは国際法に乗っ取った処刑とも考えられる。
 詳細は、上の解説のみで分からない。
 見物している日本兵らしき人達の中には色が白いシャツを着ている者もおり、犠牲者の前には青々と茂った雑草が生えている。

12月 1月 2月
気温 4.4C 2.2C 3.9C

 「南京事件」は東京裁判の中で「南京陥落(昭和12年12月13日)から6、7週間の間において行われた・・・・」とある。
当時の南京の温度は詳細には分からないがこれを推察する一つの資料がある。ダイヤモンド社刊『地球の歩き方』95−96年度版の中には左の様な温度条件が書かれてある。以上のように「南京事件」当時、下着のシャツを着て見物を行う等とは常識的に考えられない。

 結 論

 この写真を「南京事件」における残虐行為と言うには少々無理がある。犠牲者は平服でなく、戦闘服であるし、当時の中国兵はゲリラ活動などを行っており日本軍は悩まされた。だが、ゲリラは国際法において交戦資格をもっておらず捕らえられたのち、即時処刑は合法行為である。仮に南京において行われた処刑としてもこの写真撮影時期は間違いなく「南京事件」当時の「冬」とは異なる。
それに、当時の「南京事件」が起こったとされる時期に首を斬った処刑の記録は一切無い。すべて銃殺、又は銃剣による刺殺のみである。結果、この写真は解説にある様な「南京事件」の証拠写真ではない。


偽造のプロだねアイリス・チャン 松尾一郎

アイリス・チャン『ザ・レイプ・オブ・南京』表紙
写真(1)アイリス・チャン「ザ・レイプ・オブ・南京」に掲載されている写真
写真(2)アイリス・チャンの著書と同じ題名のウソ写真480枚掲載本。
写真(3)いんちき写真本に掲載されているパネー号のニセ写真。

 中国系アメリカ人、アイリス・チャン著「THE RAPE OF NANKING」には数多くの南京事件当時に撮影されたとされる写真が掲載されています。
 ですが、そのほとんどの写真はニセ写真、もしくは南京事件とは全く関係の無い写真に、適当なキャプション(解説)を付けているだけです。
 それらの中で、特にこれはチョットひどいと言えるのがこの1枚。

 アイリス・チャン著『THE RAPE OF NANKING』に掲載されている写真(1)の解説には、こう書かれている。(日本語に翻訳)
 
 12月12日、日本海軍は南京近くの揚子江に浮かぶ米砲艦パネイ号を撃沈した。同号は、西洋諸国の外交官、ジャーナリスト、実業家、避難民で一杯だった。(国立公文書館)

 とのことですが、この写真に写っている写真の軍艦はパネイ号では有りません
 全く関係の無いウソ写真なのです。

 アイリス・チャン『THE RAPE OF NANKING』が、いかにいいかげんな本であるかこれ1つで十分判断出来ます。

 この写真をアイリス・チャンへ提供したのは、同じ中国系アメリカ人の史詠(シ・ヨン)、尹集欽(ジエームズ・ユン)の2人である事は彼女の発言からも断言できます。
 この2名はアイリス・チャンの著書が発刊される数年前に、同名のタイトル本(写真(2))を出版しており、この本には数百枚もの、南京事件関連の写真を掲載したとうたっています。(※現在は絶版です。余りにも杜撰な内容のため)
 
 このアイリス・チャンの書籍と同名の写真集『THE RAPE OF NANKING』に掲載されている南京事件に関する写真、480枚の中からアイリス・チャンへ提供されている事が容易に理解できます。
 
 これらの中にもアイリス・チャンの著作と同じ、写真が掲載されていますが艦全体を写してます。(写真(3)

 しかし、アイリス・チャンに掲載されている写真は一見してこの軍艦が判別しづらくするためにわざと輪郭をぼやかしており、これは明らかに意図的に行われている事は明白です。

米砲艦パーネー号の写真(official U.S.Navy photo)写真(4)
光人社刊「わかりやすい日中戦争」三野正洋227ページ掲載『日本海軍機の攻撃をうけて撃沈された寧海型』写真(5)
インターネット上で公開されている、寧海が撃沈後に対岸から撮影された写真。写真(6)

 パネイ号の写真をみると写真(4)のように煙突が2つですし、まるで遊覧船のような船体をしています。
 
 この写真はPHP出版「私が見た南京事件」奥宮正武。22ページにも掲載されています。
 
 一見しただけで全く別の軍艦と判別できるのです。

 しかしながら、アイリス・チャンの写真に使われている軍艦を一体なんだろう?と、思われる方も多いのではないでしょうか?
 このアイリス・チャンの著作に掲載されている、パネー号とされる軍艦は、国民党(蒋介石軍)が保有していた中国海軍の2隻の軽巡洋艦のうちの1隻「寧海」だったのです。(写真(5)

 この写真(5)が掲載されているのは、
 光人社刊、三野正洋著『わかりやすい日中戦争』の227ページに掲載されています。
 
 この本の中では、こう書かれています。
 
 “この2隻(中国軍軽巡洋艦)は、第2次上海事変が勃発した直後の昭和12(1937)年9月23日、日本海軍機の攻撃によって揚子江岸で撃沈された。
 沈んだ場所の水深が浅かったので日本海軍はこれを引き揚げ、寧海を五百島(いおじま)、平海を八十島と改名して戦力に加えている。この2隻は日本海軍の輸送・海防艦として活躍したが、いずれも第二次大戦末期、アメリカ軍によって再度撃沈された”

 ・・・と、書かれています。
 つまりアメリカ軍砲艦パネー号とも南京大虐殺とも全く関係が無いのです。

 ところで、アイリス・チャンが掲載した写真の鮮明な写真を提示しておきます。写真(6)
 この写真はつい最近までインターネット上に掲載されており、日中戦争を記録したホームページに掲載されていました。
 
 この写真(6)の脇には写真に対する解説が書かれています。
 
 「我ら爆撃に依り 寧海撃沈の瞬間」

 いずれにしろにしろ、アイリス・チャンは明白に、そして確実に歴史の偽造を行ってしまった訳です。
 このように写真1枚を見てもアイリス・チャン著作がいかにいい加減であるか証明出来る訳です。
 (※98年秋に「The Rape of Nanking」がペーパー・バック化した時に写真を「The Battle of China」のパネー号撃沈の映像と差し替えました。)


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